トランスレーション医学研究50年―動物実験と臨床応用に介在する死の峡谷の克服


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中尾 一和(なかお かずわ)京都大学名誉教授 京都大学医学研究科特任教授

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 死の峡谷(Death Valley)とは、薬剤などの臨床応用を目指した開発研究において、動物実験などの基礎研究とその成果の臨床応用の間に存在する克服が極めて困難な種々の事象、例えば予期せぬ毒性や副作用、有効性における種差などのために、多くの開発研究が実用化に至らず中途で断念されることを「険しい山に囲まれて越えることが難しい谷間」に例えて表現したものである。別の言い方をすると、「基礎研究の結果をそのままヒトへ臨床応用できることは、極めて稀」である。この死の峡谷を渡り、臨床応用へと先導する臨床医学者Physician-Scientistは、臨床医であり研究者でもある二刀流であるが、両立することの困難さからGoldsteinら(コレステロール代謝における業績でノーベル賞受賞)により、必要な人材だが「絶滅の種族」とも呼ばれてきた。
 私が杉田玄白賞を受賞した「レプチンのトランスレーション(橋渡し)医学研究(TR:Translational medical Research)」は、抗肥満作用を有するレプチンのTRの成功に対するものである。レプチンは、脂肪細胞から脂肪蓄積量を反映して分泌され、食欲調節作用に与かる脳の視床下部の神経細胞に発現するレプチン受容体に結合し、摂食抑制作用を発揮する。レプチン遺伝子に突然変異を起こし作用欠如したob/obマウスは高度に肥満し、体重は正常マウスの3倍にも至る(図1)。レプチン受容体遺伝子の突然変異で作用欠如したdb/dbマウスも同様に高度肥満になる。併体結合実験(parabiosis)と呼ばれる古い研究法がある。一卵性双生児のように遺伝子が同じ2匹のマウスの身体を手術で結合し、2匹が血液循環を共有できるようにして、何が起これるかを観察する研究法である(図2)。左のob/obマウスと正常マウスの併体結合を行うと、正常マウスには変化なく、ob/obマウスの肥満が正常化する。真中のdb/dbマウスと正常マウスを併体結合すると、db/dbマウスの肥満は不変のままで、正常マウスが激瘦する。最後に、ob/obマウスとdb/dbマウスを併体結合すると、右のようにdb/dbマウスの高度肥満は不変のままだが、ob/obマウスの高度肥満は正常化を通り越し、激痩する。レプチンの存在とその意義を予見したColeman博士の研究成果である。この研究結果が報告された後、何十年間もこのホルモン様因子は発見されないままであったが、1994年,Friedman博士らにより、レプチンが脂肪細胞から分泌される抗肥満ホルモンとして発見され、ob/obマウスはレプチン欠損マウスであることが解明された。


 遺伝子工学技術を利用すると、ホルモンの過剰発現マウスや欠損マウスの開発は容易であり、自然発症疾患モデル動物の確立と比較して容易に開発可能で、機能解析は飛躍的に進歩している。私たちが開発した肝臓でのレプチン過剰発現トランスジェニックマウスは、「異所性ホルモン産生腫瘍」の病態を再現したもので、ホルモンとしてのレプチン作用の解明と臨床応用に有力な手段となった。レプチンを肝臓で過剰発現するとマウスは激瘦せする。このマウスと高度のインスリン抵抗性糖尿病、高中性脂肪血症、脂肪肝を示す全身性脂肪萎縮症候群モデルマウスを交配すると、脂肪組織は無いものの糖尿病、高中性脂肪血症、脂肪性肝炎はほぼ完全に改善した。肝臓で異所性産生されたレプチンのホルモン効果である。同じ血中濃度になるようにレプチンを持続注射しても効果は再現した。この結果はレプチン作用があれば脂肪組織は無くても、稀少難病である脂肪萎縮症候群の糖尿病、高中性脂肪血症、脂肪性肝炎を治癒できることを証明するものとなった。これらの成果とヒトの脂肪萎縮症候群の病態を詳細に対比検討し、私たちは、死の峡谷を渡ることに成功して、世界で最初に脂肪萎縮症候群に対するレプチン補充治療法の承認を得た。一方、レプチンによるマウスとラットの脂肪性肝炎に関する研究では、全く逆の対照的な結果を得て、ヒトでの結果を合わせて著しい種差の存在を経験し、死の峡谷の存在を再確認した。現在、昨年(2021年)保険承認された高感度レプチン測定法を駆使して、レプチン治療の適応拡大に向けてTRを継続し、予想外の適応疾患の病型と頻度に関する成果を得ている。
 「食」に関する医学研究の進展を阻むものは種差などの「死の峡谷」だけではない。例えば、ヒトの研究における食事記録は正確さを欠くことが多く、また食事療法の3か月以上の継続はしばしば困難であるなど本質的な問題が指摘されている。「食」の医学研究における基準の標準化・客観化の困難さは、ヒトにおける「食」に関する医学研究の進展を阻んでいるが、小児患者の正直な反応が「食」の効果判定の突破口になることも経験した。
 基礎研究と臨床応用の間に介在する「死の峡谷」を渡る案内人のような臨床医学者Physician-Scientistとして活動して、半世紀が過ぎようとしている。レプチンと心臓血管ホルモンのナトリウム利尿ペプチド(ANP(1), BNP(2), CNP(3))のTRを実践し、死の峡谷を越えたと実感した時の喜びと達成感は、計り知れないものであった。「絶滅の種族」とも呼ばれる臨床医学者Physician-Scientistとして、後進の若手研究者に、敢えて伝えたい。論文数は必要だが、「百論文は一実用化に如かず」、「有限の中に時間のかかるTRに挑戦し続ける」、そして、臨床応用が最終目標のTRでは、「参加に同意された患者さんとその家族に感謝する」ことを。

(1)ANP:心房性ナトリウム利尿ペプチド
(2)BNP:脳性ナトリウム利尿ペプチド
(3)CNP:C型ナトリウム利尿ペプチド

 

2022年2月28日「世界稀少疾患の日」に記す。

筆者紹介

中尾一和(なかお かずわ)

現職:京都大学名誉教授、京都大学メディカルイノベーションセンター特任教授、認定NPO法人日本ホルモンステーション理事長、公益財団法人健
   康加齢医学振興財団専務理事
略歴:京都大学医学部卒業、京都大学医学部内科学第二講座・内分泌代謝内科前教授、
学会:日本内分泌学会(元理事長)、日本肥満学会(元理事長)、日本臨床分子医学会(元理事長)、日本心血管内分泌代謝学会(元理事長)他、
   第14回国際内分泌学会(2010京都)組織委員長、第109回日本内科学会総会(2012京都)会頭他
受賞:ベルツ賞、持田記念学術賞、日本内分泌学会学会賞、日本医師会医学賞、日本肥満学会学会賞、武田医学賞他
表彰:文部科学大臣表彰(科学技術賞)、紫綬褒章、瑞宝中綬章、兵庫県養父市名誉市民

 

 


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