けふの今こそ 楽しかりけれ

山村 修福井大学医学部 地域医療推進講座 教授

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 江戸時代にもメンタルヘルス(こころの健康)の不調はありました。心の不調には環境変化が欠かせません。その対策は、今も昔も変わらないようです。では、具体的にどのような対策を取っていたのでしょうか。

 厚生労働省の労働安全衛生調査(2020年)によると、過去1年間にメンタルヘルス不調を理由に連続1ヵ月以上休業者又は退職者がいた事業所の割合は平均で9.2%でした。ほぼ10社に1社の割合です。ところが内訳を見ると規模が大きい事業所ほど休・退職者を生じる事業所の比率が高くなり、1,000人を越える事業所では実に90.3%にも達しています(図)。組織が大きくなるほど管理体制も厳しくなり、自分の仕事の成果や達成感を見出しにくくなるのかも知れません。江戸時代の産業で1,000人を越える組織を持つのは公儀(幕府)と藩です。当然、この両者にもメンタルヘルス不調を訴える役人は大勢おられたでしょう。本稿では岩下哲典氏著「病と向き合う江戸時代」から、メンタルヘルス不調に悩む藩役人の勤務状況と職場である藩の対応を眺めてみましょう。

 天明8年(1788年)正月、御三家の大藩、尾張藩58万石の小納戸役(150石)、小山田勝右衛門は「気分不快引籠(きぶんふかいひきこもり)」状態で出勤不能となりました。その報告は名古屋城内の上司である御用番頭を通じ、「中奥」の責任者である御用人に伝えられています。以後、小山田への対応を巡り、上司と同僚はあの手この手を尽くします。

 小山田の天明8年の勤務状況は以下の通りでした。

1月 3日間欠勤

2月 半月間欠勤(直前7日間は京都出張)

3月 半月間欠勤(同月16日は無断早退)

4月 勤務日削減 勤務は3日間のみ

5月 13日間勤務

6月 江戸転勤予定のため休暇取得

    実弟の急死で10日間の忌引き、45日間の服喪

7月 3日間勤務し、以後欠勤

8月 江戸下屋敷に転勤

 小納戸日記からは、同僚たちが小山田の欠勤のたびに勤務表を書き換えている様子がうかがえます。彼らも予定変更で苦労が多かったようです。当初、小山田の上司は彼の業務を見直し、京都出張や藩主家族の代参(神社への代理のお参り)などの業務で気分転換を図ろうとします。しかし事態は改善しません。そこで上司は、勤務日を一時的に減らそうと試みます。4月の勤務はわずか3日間。休養は十分とみて5月は13日間に戻しますが、満足な勤務状態には戻らなかったようです。ここまで5か月の勤務状況を見て、上司は配置転換を決意します。6月に入ると小山田には江戸下屋敷への転勤が打診され、引っ越し準備のため100日間の休暇が許されます。ところがここで、小山田の実弟が急死します。休暇は10日間の忌引きと45日間の服喪に変更され、7月に入ると小山田は出勤を命じられます。しかしわずか3日で再び欠勤…。823日、正式に江戸下屋敷勤務を命じられ、小山田は名古屋を去ります。

 小山田のストレスはいろいろあったと思いますが、最大のストレスは無断早退が藩主にバレたことでしょう。「中奥」は藩主の日常生活の場なので、小納戸役の小山田が藩主本人と接する機会は多かったのです。このため316日の無断早退に藩主・徳川宗睦は気付きます。小山田は藩に「差し控え」、つまり謹慎の伺いを立て、上司は江戸の上役に使いを走らせます。その結果、同月28日に届いた返答は、「差し控えには及ばず」でした。このように、尾張藩は欠勤を繰り返す小山田に寛容な態度を示し続けました。立藩以来180年余り。巨大組織・尾張藩はメンタルヘルスに関し、多くの経験を積んでいたのかも知れません。小山田は江戸詰めの後も尾張藩に勤務し続け、享和3年(1803年)に死去しました。家名は存続し、跡目は惣領の新之助が継ぎました。

 小山田勝右衛門の晩年にあたる享和元年、まだまだ現役で、江戸・浜町で副業の診療所を経営していた杉田玄白先生は69歳を迎えていました。10月晦日、玄白先生は擬人化した文房具達が書斎で酒宴を開いている様子を描き、その上に戯文を書き込んで一幅としました。タイトルは「鶴亀の夢」。末尾には、あくせくと働く世情の人々に向けたクールな一首が掲載されています。

 過ぎし世も くる世もおなじ 夢なれば けふの今こそ 楽しかりけれ

 同じ年に、玄白先生は近親者に養生七不可を送りました。その第1条は「昨日非不可恨悔」、第2条は「明日是不可慮念」とあります。「鶴亀の夢」の一首と合わせると、「クヨクヨするなよ」、「Take it easy!」が玄白先生のメッセージと思われます。それにしても、心の持ち方を七不可のトップに据えるあたり、玄白先生の患者さんにもメンタルヘルスの不調を訴える人は多かったのでしょう…。

 

山村 修

福井大学医学部 地域医療推進講座 教授

昭和44111日 兵庫県西宮市生まれ

昭和62年 福井県立藤島高校 卒業

平成06年 兵庫医科大学 卒業

平成13年 福井医科大学 大学院修了

平成22年 福井大学医学部 地域医療推進講座 講師

令和03年 同 教授(現職)