玄白先生と江戸の梅毒


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山村 修福井大学医学部 地域医療推進講座 教授

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 梅毒は細菌の一種である「梅毒トレポネーマ」によって発生する感染症で、性行為によって感染します。人類の存続に性行為は不可欠であることから、長く人類を悩ませてきた疾患でもあります。梅毒の起源は北米大陸とする「コロンブス説」が有名ですが、異説もあります。我が国最古の梅毒の記録は戦国時代真っただ中の永正9年(1512年)で、京都の医師・竹田秀慶の「月海録」とされ1)、戦国屈指の文化人である三條西実隆が歌日記「再昌草」に収録した一首からも感染拡大の様子が伺えます(同年424日)。

道堅法師、唐瘡(からかさ:梅毒のこと)をわづらふよし申したりに、戯れに、

「もにすむや 我からかさを かくてだに 口のわろさよ 世をばうらみじ」

 進行した梅毒では鼻や顔面の一部に欠陥を生じる場合があり、罹患した道堅法師は「口のわろさよ」と自らの症状を呪っています。戦国時代の後半に入ると南蛮貿易などでさらに海外交流は拡がり、感染者は増加しました。戦国武将の加藤清正や、徳川家康の次男、結城秀康も梅毒に罹患したことが指摘されています2)

 宝暦7年(1752年)、25歳の杉田玄白先生は江戸の日本橋通4丁目に開業され、小浜藩での勤務と自らの診療所経営のダブルワーク状態となりました(下図)3)。玄白先生は頻繁に訪問診療に出られており、北は浅草から南は芝・麻布まで、東は本所・深川から西は青山・渋谷までと、江戸中を回っておられました。診療所は火災などで移転を余儀なくされますが、日本橋を離れることはありませんでした(同 箔屋町、同 堀留町)。先生の訪問が最も多かったのはもちろん日本橋界隈ですが、次いで多かったのは浅草と本所・深川でした。高名な遊廓や岡場所のある地域です。江戸後期に入ると性行為感染症のパンデミックは激しくなり、江戸市中の人骨調査から推計される梅毒患者の頻度は5.4%と報告されています4)。自らの診療エリアでパンデミックに直面した玄白先生は、人生の後半を梅毒診療に捧げることになります。その経緯を、先生は随筆「形影夜話」の中で述懐されています3)

 「生得不才(生来不才)」と自らを戒めていた玄白先生は、ある日、せめて一病だけでも嚢中の物を探り取るように容易に処置できるようになりたい、と決意されます。そこで選ばれたのが梅毒でした。先生が「黴瘡(梅毒)ほど世に多く難治にして人の苦悩するものはない」と感じる程、梅毒は身近な疾患でした。そこで先生は梅毒の専門家と聞くと必ず尋ね歩いて、その治療法を学び、実践しました。また自らの蔵書だけでなく他人の秘蔵書まで読みつくし、「数百処方を輯録(収集)」し、個々の患者さんに合わせて処方しました。しかし、納得のいく治療には至りません。そこで導入を試みたのが、長崎の出島に伝わった西洋医学の「水銀療法」でした。今では全く効果が認められていないこの治療法も、19世紀初頭では世界の先端医療でした。玄白先生は出島のオランダ通詞(通訳)であった吉雄耕牛先生から昇汞水(しょうこうすい、=水銀水)の製法を入手すると、その製法を秘蔵することなく遠方の弟子に手紙で伝えました5)。その様子から察すると、数多くの患者さんに投与されたものと思われます。

 やがて、治療推進の旗頭の1人となった玄白先生の元には診療依頼が殺到し、文化7年(1810年)には「病客は日々月々に多く,毎歳千人余りも 療治するうちに,七八百は梅毒家なり」、つまり1年間の受診者1000人のうち700~800人が梅毒という状況になりました3)。もちろん、満足のいく治療成績は得られません。随筆(=形影夜話)に「さして変わりなし」と正直に書いているところは、果敢に新治療に挑んだ玄白先生の凄みでしょうか。梅毒の不幸を目の当たりにしていた玄白先生は、この病を治したいと強く決意されたに違いありません。その一方で、冷静に自身の治療成績を分析し、世間の自分へ高評価を「虚名」と言い切って、名声に溺れることはありませんでした。

 梅毒の治療薬であるペニシリンの登場は玄白先生の逝去(1817年)から111年後です。世が明治になっても、水銀療法は梅毒治療の主流でした。ちなみに水銀療法の「水銀」は無機水銀か有機水銀かが問題です。無機水銀の代表は硫化水銀。つまり水銀朱で、日本では古代から顔料として使われています。有機水銀の代表はメチル水銀。水俣病の原因物質です。その製造法が確立したのは1868年です。そうすると玄白先生が使われたのは無機水銀ではないかと思われますが、詳細は伝わっていません。先生はどうやって水銀を手に入れられたのか、気になるところです。

 養生七不可の一節に「壮実を頼んで、房をすごすべからず」、と挙げた玄白先生。壮実の「壮」は働き盛りを示す漢字であり、社会的な責任を負う世代を示します。一読すると、人生で最も忙しい時期に、夜の営みを過ごして疲労を貯めることを戒めているようです。しかし毎年千人の梅毒患者さんを40-50年間も診てきた玄白先生には、もっと深い思いがあるのかも知れません。

〔参考文献〕

  • 柳原保武、柳原格。内科-100年のあゆみ(感染症)、日本内科学会雑誌 第91巻 第10号。p179-1852002
  • 加藤茂孝。人類と感染症の闘い、モダンメディア625号。p173-1832016
  • 松崎欣一。「杉田玄白晩年の世界」慶應義塾大学出版会。2017
  • 鈴木隆雄。「骨から見た日本人」講談社。1998
  • 片桐一男。江戸時代、東西医学の対話。日東医誌 Kampo Med 55(5)p627-6382004

謝辞:執筆にご協力いただいた伊藤久美子氏に感謝いたします。


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